そこは、遠慮がちにしか光の届かない教員棟の一室。
広い空間に重厚なテーブルが置かれてはいるが、その全容も、周囲の壁や調度品も、すべては深い陰影の中に沈んでいる。
聞こえるのは、時折紙片をめくる音と、テーブルを囲む大人たちのどこか無機質で乾いた声。彼らの顔もまた、カーテンで閉ざされた窓から零れる僅かな光にその輪郭をかろうじて浮かべるだけで──まるで仮面をつけているように──その表情は、誰一人として明確には見えなかった。
「まさか、我らが《頂》の生徒ならともかく、外部の人間に負ける……とは思いませんでしたな」
一つの声が、静寂に沈む空気をわずかに震わせる。
皮肉に口元を歪め、テーブルの上で両手を組み直す気配だけが、その存在を示していた。
「所詮は他所で得た名声……ということです。デビュー戦で傷物になるのは予想外でしたが」
別の声が、相槌のように続く。
「それで、彼女の所属については……いかがします?」
その声の主は完全に暗がりの中だが、声の向きから、誰か別の人物に問いかけていることは分かった。
「我々は構いませんよ。新任のエリス教師が彼女をどう扱うのか……見届けようじゃありませんか」
尊大で、最も重みのある声が応じる。その人物の存在は、テーブルの一番奥の、最も深い闇の中に感じられた。声の調子には失望というより、むしろ品定めするような冷たい好奇心が滲んでいた。
パサリ、と乾いた紙の音が、静かな部屋に不自然なほど大きく響く。
その人物の手元から、冷たい感情と共に机上に投げ捨てられた書類。
エルデ・アリンフロットの輝かしい履歴を記したその資料は──その瞬間、ただの紙切れと化した。
(……まぁ所詮、そんなもんかね)
その様子を、忌々しい心地で眺めていた三賢者の一人であるルネは、そう胸中で独りごちた。
顔にでていたかもしれないが、まぁ構わないだろう。
もう何年も、おそらくいつの時代でも繰り返されてきた──そしてこれからも繰り返されるであろう──こういった生産性のないやり取りも、いい加減なんとかしたいものなのだが……ここにいる連中の目が節穴というのが解っただけでも、この集まりに意味はあったのだろう。費やした時間に見合う価値があるのかは別だが。
《理力》という可能性を得たところで、人は、そう簡単に賢くはなれない。
『三賢者』たる自分がそれを思う事の皮肉に、思わず苦笑する。
だがこれでいい。
この年寄りより頭を使わない連中に、可能性の芽を渡す気など微塵もなかった。
あとはあの不肖の弟子──エリスが何とかするだろう。
操者としても人間としても……まあ及第点はくれてやってもいい弟子だ。少なくとも、目の前の連中よりは信頼できる。
別に目の前の連中は、無能でもなければ無力でもなかった。厄介なことだが。
こういった手合いを相手にするなら、今後は……エリスのようなお人好しや、回りくどい采配も必要になってくるだろう。
会議はすでに、次の議題に移っていた──半分も聞いてはいなかったが。
まぁ、書いてあることに目を通せばそれで済む。
手元の資料に視線を落としながらそう思い直したルネは、既にまったく別のことを考えていた。
(灯りくらいつけりゃいいのにね──まったく)
エルデが目覚めたとき──そこは、自分の記憶にない部屋だった。
開いた目が映し出したのは、白い天井と、少し年期の入った天井灯。
さきほどから鼻孔をつく……病院、あるいはそれに類する施設特有の匂いからすると、ここは《頂》の医務室か何かだろう……と見当をつける。これで、視覚と嗅覚が生きているのが分かった。少なくとも、1日以上経過している……ということもなさそうだ。もしそうなら、シーツからこのように清潔な芳香が漂ってくることもあるまい。
いっぽうで、疲労とは違う別種の倦怠感が身体を支配していた。
中等部クラスとはいえ、ユーロの大会で優勝した──という肩書きに、驕っていたつもりはなかったのだが……
──ショックだった、ということなのだろう。
それくらいの自己判断はできる。自分は操者なのだから。
操者は常に、自身と、その周りの世界を把握していなければならない……はずだった。
身体の状態から考えたら、術そのものの直撃は受けていないはずだ。どちらかといえば、自身の許容範囲を超えて、理力を絞り出した負荷が原因だろう。過去にあれほどの威力を受けきった経験なんて、なかったのだから。
ふと、さっきから自分が憶測ばかり並べていることに気づき──
いっそシーツの清潔さと、洗い立て特有の心地よさに再び身を委ねてしまおう……かとも思ったが、自分が寝ているベッドの傍らの気配に気づいたので、それは自制する。
その気配の主は、何の特徴もないパイプ椅子に──他に誰も見ていないだろうに──姿勢正しく座り、こちらの様子を静かに見守っている。
知っている顔だった。なにせ彼女は、自分の前の世代を代表する操者といっても過言ではない。
面識はなく、直接話したこともなかったが。
「──大丈夫?」
こちらが何か言うより早く、その女性──エリス・カシナートが告げる。
「……大丈夫です。身体の方は」
失礼かとも思ったが、ベッドに横たわったまま応える。
身じろぎするだけで節々は痛むが、言葉通り身体の方は我慢できた。問題は、さきほどから頭を蝕んでくる片頭痛だ。
言葉を発してみて気づいたが、喉も酷く乾いている。
「エリスさ……エリス先生が、私をここに?」
エリスの恰好が教師であることを示す衣装だったので、訂正する。
頭痛のせいか、普段よりついてこない思考に歯噛みする心地だった。
「いいえ。ここまで運んだのは《頂》の試技会衛生員。あなたの容態を診ていてくれたのは、そこにいるナーシャよ」
エリスの視線を目で追うと、ベッドを囲む白いカーテンの隙間から──痩せ型の……褐色肌の女性の姿が見えた。
《頂》の制服を着ているので、彼女も生徒ということになる。
こちらの視線に気がつくと……そのナーシャと呼ばれた女性は、黒目がちな目をやわらかく細めて微笑み、自分とエリスに気を使ったのだろうか──無言で席を外し、退室していく様子だった。カーテンで遮られた状態からでは見えなかったが。
傍にいるエリスに視線を戻し、喉の奥にわずかな唾液を押し込んで、疑問を口にする。
「エリス……先生が、どうしてここに?」
「話がしたかったからよ。貴方の対戦相手だった生徒を預かる……教師として」
「…………」
意外なことではあった。だが予想外といったわけでもない。
暫しの沈黙のあと、エリスは言葉を選ぶようにゆっくりと唇を開いた。
「……いろいろと不思議な縁でね。私はこの《頂》で、あの子を教えることになったわ」
あの生徒が何者なのか、興味はあったのでそのまま話を聞く。
「あの子に、今回の試技でああしろと言ったのも……私」
その口調と台詞には、どこか試されている含みを感じたが……探り合いをする気力までは回復していなかったので、気づかないフリをした。こちらの反応がないことに、エリスはわずかに困ったような表情をみせたが……それも一瞬のことだった。
「とはいえ、あの子の理力があれほどとは……正直、私も認識していなかったの。信じてもらえないかもだけどね」
彼女の表情と、話の流れを静かに見守る。
本音を言うと、頭痛と渇きで声を発するのが億劫だったのだが、それは表に出さない。
「貴方が今後所属する教室のことは、もう聞いている?」
「……編入手続きの時に聞いてます。先生の……教室ですよね?」
だから自分は、この女性に関する公的な情報だけは知っていた。
なにせこの《頂》で自分の師となる操者なのだから。
目の前の女性──エリス・カシナートは、正しい意味で一流といえた。
理力を我がものとし、操る術を身に付けた、一級品の《理力操者(レシオテイマー)》。
自分が知りうる情報だけでも、《六華》に名を連ねていてもおかしくない実力者のはずだ。
それがこうして《頂》の一教師として目の前におり、あまつさえ、自分の先生になるという。
痛む節々と頭を抱えながらゆっくりと上体を起こし──その間も、エリスは辛抱強く自分を待ってくれていた──しっかりとエリスに向き合って告げる。
「……私に選択権はないんですよね?」
「《頂》には生徒が教師を選ぶ、なんて制度はないはずよ。残念ながら」
エリスは質問の内容に、困ったような、残念そうな表情を浮かべ、それも仕方ないといった様子で後を続けた。
「ただ、不服を申し立てることはできるわ。貴方が望むなら──」
「私、別にエリスさんが嫌だって言ってませんけど」
釘を刺す。この言葉に他意はなく、言葉通り不服もなかった。だが──
頭では解っていても、態度に出てしまう未熟。
自分を下したあの生徒の後ろに、この人がついていたという事実に対する反発が、語気に表れていたのが自分でも解る。
こちらに向けられた教師の視線。その目に漂う複雑な感情の影を捉えた途端、自分の心の奥も静かにざわついた。
「……すみません」
と、涸れた声で呟き、自分が上体を起こしたせいで皺のできたシーツに視線を落とす。
訪れた沈黙の中で、医務室の何処かにある時計の秒針が、こちらの気持ちなどお構いなしに規則的な音を刻んでいる。
室内を照らす天井灯の灯りは……どこか無機質で、遠ざかりたい気持ちを抱かせるほどに無言だった。
それを打ち消すように──あるいは、こちらの気まずさを誤魔化すように──エリスが小さく息をつく音が聞こえる。その音は、無言の中に流れる気遣いのようにも感じられた。
「……貴方も、本当に素直な子ね」
「……?」
その発言の真意がわからず、視線で問いかけてみる。
が、それには構わずエリスは言葉を続けてきた。
「貴方の対戦相手だった生徒──マミナっていうんだけどね。あの子も……本当に素直でいい子なのよ。貴方と同じくらい」
自分が素直? その評価は、間違っていると思った。
「あの子が理術を学んでどのくらい経つと思う?……威力や精度は一級品。でも白状するとね……他はからっきしなの」
「……二年くらいですか?」
当て推量ではない。五感の外にある《理力》を知覚し、術の構成理論を学び、それに基づいて理力を確かな物理力として『マテリアライズ』出来るようになるには──どんなに才能があっても二、三年はかかるとされている。自分自身、感覚をモノにするのにそのくらいの時間は必要だった。
「半年よ」
「……!」
そのエリスの表情と口調には……生徒の自慢というには程遠いニュアンスが含まれていた。
思わず絶句する。
「《頂》(ここ)には、規格外の人間も珍しくないけど──」
タイミングを探るような一瞬の間。ひょっとしたら、エリスも言葉を選んでいるのかもしれない。
「あの子も十分規格外よ。そして、貴方もね」
何故自分がそこに含まれるのかは疑問だった。自分はそこまで異常ではないし──初戦で痛感したことだが、単純な理力の『大きさ』でいえば、あの生徒には遠く及ばない。最大を維持する制御力に関してもそうだ。
「勝手な都合をいうとね……できれば、あの子の力になってあげて欲しいの。同期の外来として」
その言葉には、勝手などという理不尽を感じる以前に、意味がわからなかった。
さすがに問い返す。
「なんでわたしが……」
「ホント、これ言っちゃうとね?……教師として申し訳ないんだけど。これは直感」
直感ときたものだ。もはやこの教師が自分に何を求め、何を期待しているのか正直分からなかった。
心なしか、頭痛も酷くなってきた気がする。
「なんとなく、だけど……貴方はあの子を傷つけないと思ったの」
ふと──この人物への理解を拒み始めていた頭に、その言葉だけは自然と耳に入ってくる。
自分が……あの子を?
「《頂》で育った子達みたいに、あの子を下には、きっと見ないし……」
自分は《頂》の生徒たちの内情など知らない。
あの生徒には、辛酸を舐めさせられたばかりだというのに──
「──面倒見、よさそうだから」
ズルい。と思った。
だから視線は合わせずに、言葉だけを告げる。
「……買いかぶりです」
その言葉に対し、エリスがどのような表情を浮かべたのかは分からない。
だが、伝えるべきことは伝えた、というように、席を立ち上がる気配。その微細な気配さえ、隣に寄り添うような温かさを持っていることに──ようやく気づく。
カーテンで仕切られたここからでは、窓の外の景色は見えない。
ただ、外した視線の先で……白いカーテンが薄いオレンジ色に染まっているのが目に入った。
「さっきの試合。あの子は私の期待に全力で応えてくれたけど、貴方も──私の期待に応えてくれたのよ。エルデ・アリンフロットさん」
それだけを言い残し、エリス・カシナート……これから自分の先生となるその女性は、部屋を出ていった。
リノリウム張りの廊下に出たエリスの視界に、茜色が次第に紫へと溶け込んでいく……窓越しの空と校舎が映り込む。まだ人が残っている教室や部屋には灯りがともされており、沈みゆく太陽の最後の光は、廊下に窓枠の影を柔らかく刻んでいた。
その光景と、今日起きた出来事を噛みしめながら──エリスは胸中で静かに自問する。
彼女(エルデ)に、自分の真意は伝わっただろうか?
──おそらく伝わっただろう。彼女はとても聡い子だ。
そう結論し、顔を上げたエリスに近づいてくる気配があった。
エリスが顔を向けると、そこに、廊下の向こうから水差しを抱えてくるナーシャの姿が見える。
静かにこちらまで近づいたナーシャはまったく他意のない調子で、清潔な水の入った水差しと、ガラス製のコップが用意されたトレイを少し持ち上げ、小首をかしげて告げてくる。
「エルデさん……喉、渇いてるかと思いまして」
そんな当たり前の配慮を見落としていた自分に気づかされたエリスは──生徒には理解を求め、自分はこの有様なのかと──いまさら医務室に戻るわけにもいかず、自虐の笑みを浮かべるしかなかった。
そんなエリスの心情を察してか……
「──大丈夫ですよ。きっと」
ナーシャは、そう言って優しく微笑んだ。
一人医務室に取り残されたエルデは、白いカーテンで仕切られた寝台の上で、ぼんやりと──エリスの言ったことに思慮を馳せていた。
閉ざされた窓の向こうでは、陽が完全に沈んでしまったのだろう。先ほどの、夕日の温かな光がカーテン越しに交じり合う……どこか非現実的な美しさを醸し出す光景から、いつのまにか天井灯の光だけが空間を支配し、夕刻の静かな移ろいを示している。
おそらくエリスが部屋を出てから、さほど時間は経っていないはずなのだが──医務室の無機質な光と音は、まるでその沈黙を永遠のものにしようとしているかのようだった。
そんな中でエルデは、結論というより……確信めいたものを感じていた。
初めから、エリスの描いていた構図はシンプルなものだったのだ。
たった一手の攻防で、お互いが今持てる全力を、試技会を観ていた全ての者に提示すること。
マミナの放つ全力を、止められるか、止められないかという構図にすぎない。
勝敗は、あくまで当事者であるマミナとエルデ、二人の生徒に委ねていた。
そしてその天秤は、両者の些細な気持ちの揺れひとつで、どちらに傾いてもおかしくはなかったのだ。
受けるのが自分でなければ、大惨事が起こっていたかもしれない。
だが、きっと自分なら大丈夫と……信頼していた。エリスにとっての自分は、話したこともない生徒だというのに。
だから、ああ言ったのだろう。貴方も期待に応えてくれた──と。
おそらくあの生徒……マミナにだけ助言したことをフェアではないと考え、あの教師は負い目を感じていたのだろう。ずっと自分が起きるのを待っていたのも、こうして話したのも、エリスなりの誠意なのだ。
別に、自分とマミナのキャリアの差を考えれば、助言をするのは教師として当然だとも思えるし、自分の教室の生徒同士が対峙する葛藤もあったのだろう、きっと。どちらに肩入れしたかというような話ではないのだ。
少なくとも、こうして自分のことも心配してくれていたのだから。
「──それなら、ちゃんとそう言えばいいのにね」
そうエルデが呟くと、寝台を囲むカーテンが開き、そっと入ってくる人物がいた。先ほどの……ナーシャという女性だ。
彼女はトレイの上に運んできた水差しを近くのテーブルに置くと、上品な手つきでその中身を、同じく持ってきたコップへと静かに注いでいく。
エルデがシーツの上で身じろぎをすると、布が優しく擦れる音がした。
ナーシャはその音に口元の笑みを深くすると、こちらを向いて、しっとりとした表情で囁くように告げてくる。
「──お水。いかがですか?」
そっと差し出された──透明な──水の入った、ガラス製の小さなコップ。
「……ありがとう……ございます」
戸惑いながらもそれを受け取り、そのふちに静かに口をつける。
まず感じたのは、冷たい水の感触。
ただの水がこんなにも美味しいと感じたのは……いつ以来だろうか?
喉の渇きと共に、心も満たされていくような感覚。
ナーシャは先ほどまでエリスが座っていた椅子にやわらかく腰かけ、こちらの様子をただ見守っている。
決して押しつけがましいものではなく、あくまで寄り添うような気配と眼差し。
コップを揺蕩う光の反射が失われ、ひと心地ついたエルデがふと気がつくと……
先ほどから頭を苛んでいた痛みは──いつのまにか、霧が晴れたように収まっていた。
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Episode 2. 操者
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早朝の学生寮の裏庭──
マミナは一人、深呼吸していた。
ただの深呼吸ではなく、《頂》式の呼吸法……とでもいうのだろうか。
──体幹を意識して、脚は肩幅に開く。
姿勢を正し、まず肺の中に残っている空気を静かに吐き出すと、その白い息は朝の光に溶け込むように消えていった。
《頂》は大陸北部に位置しているので、春とはいえ、頬に触れる空気はひんやりとしており、朝の独特な清々しさを感じさせる。
深い朝霧がまだ庭を覆っていて、目の前の花壇に植えられた花々は薄っすらと霞んでおり──その奥では、葉を拡げた木々の隙間から柔らかな光がちらちらと零れ、日が昇る準備をしているようにも見えた。
──春の朝はこんなにも静かで、優しい。
と、改めて感じながら、重心は背骨と骨盤の結合部あたりに。手は胸の前で静かに合掌させる。
背筋を伸ばし、深呼吸の要領で、指先を絡めた両手をぐんと上に伸ばしながら……空っぽになった肺の中に、鼻孔から一気に三秒間、全力で息を吸い続ける。冷たい空気が肺に染み渡ると、土の匂いや芽吹いた草の香りが、ほんのり混ざっているのを感じた。
これ以上吸えない限界がきたら、一旦キープし、全身の力や周囲の世界を意識する。
口は『ふ』の形に。今度は七秒間。腹式を使って肺の中の空気を、口から全力で外に吐き出し続けた。
両手は身体の外側に向けて、弧を描きながらゆっくりと降ろし、最終的にはへその下を抱えるような状態へと持っていく。
息を吐き続けた七秒後に、下腹部に力と意識が集中していれば正しい型だ。
もしこの時、まだ空気が身体に残っているようなら、そこから二、三秒使ってすべて絞り出す。
ここまでが一つの所作。一回約十秒。それを六回行うのがワンセットとなる。
人によっては吸うのが四秒、吐くのが六秒といった配分になるが、合計が十秒になるのは変わらず、マミナは三七配分の方が身体に合っていた。
《頂》が提唱する基礎訓練方法の一つで、自分はエリスから教わったものだ。
教わってからはなるべく朝昼晩にワンセットずつ。体調や精神的に厳しい場合でも、寝る前だけは欠かさないよう心掛けている。
操者としてまだまだ未熟な自分が、毎日着実に積み重ねられる日課なので苦ではなく、むしろ実践すれば少しでも前に進んでいるような感覚になれるし、体幹や内筋、そしてなにより──体重や、敵である余分なお肉に対しての『ご利益』もあるのがポイントである。
まだ早朝の六時前である学生寮は、眠りの中にいるかのように静かだった。
自分だけが動き出している特別な時間。心に柔らかな満足感が広がる。
「……よしっ!」
新鮮な空気を取り入れた身体と、酸素量の増えた頭が活性化するような感覚。
その時、くぅとお腹が鳴った。
「……!?」
咄嗟に──周りに誰かいないか確認した後、ほっと胸を撫で下ろす。そういえば、昨日は夕方から何も食べてはいなかった。《頂》への入門、試技会の初戦を経て緊張の糸が切れたのか……昨日は早めの夕食後、寝支度を済ませた後の記憶がない。
となれば、ひとまず心と身体の栄養補給。まず朝食を摂るのが先決だ。
今日から本格的に《頂》の授業や講義を受けることになる。
寮に戻ろうとするその足は、気持ちと一緒に弾むように軽やかだった。
学生寮の一階にある食堂の前で、マミナは項垂れていた。
当たり前と言えば当たり前だったのだが──《頂》の寮内にある食堂は、係の人がまだ来ていないので、当然開いていない時間だったのだ。朝食用の出張パン屋さんが来る時刻は八時前……というような説明も、入口横の掲示板に貼ってある。どの道、現在の時刻はまだ六時になったばかりだ。
買い物が出来そうな最寄りの街までは、まだ行ったことが無い。しかも徒歩だとかなりの距離になるはずだった。
心機一転と意気込んでいたらこれである。いきなり出鼻を挫かれた心地であった。
朝食にありつけないとなると、余計にお腹が空いてくるのは生存本能なのか──マミナはそんなことを考えていた。それに呼応するかのように、お腹はぐーぐー鳴っている。
「……うぅ……これは困ったかも」
立ち往生してても仕方がないので、現状を打破すべく寮の自室に戻る。
簡素な調理スペースは部屋にあるものの、冷蔵庫の類はないし、そもそも《頂》に来てから食料の買い出しなど行っていないのだ。当然、買い置きもないし、部屋には食料どころかお菓子すらない。分かっていたことではあった。
マミナが空いたお腹と頭を抱えて、どうしたものかとアテもなく思案していると──
ふいに、部屋の扉を三回ノックする音がした。
「……?」
時間はまだ六時台だし、まったく心当たりがない。
《頂》の寮内なので、流石に不審者ということはないだろうが……いちおう警戒しつつ、木製のドア越しに声をかける。
「……ええっと、どちら様でしょうか?」
暫しの沈黙。息遣いなど聞こえるわけではなかったが、確かに人の気配はする。
「私だよ。おはよ、マミちゃん」
「!」
ドア越しなので少しくぐもってはいたが、マミナはその声と呼び方でピンときた。
自分をその呼び方をする人物に、一人しか心当たりがないのだ。
ノータイムで鍵を開け、扉を開くと──そこに、控え目な雰囲気の少女が立っていた。
プラチナに近い光沢を放つ金髪の、丸みを帯びたショートカット。少し透け感のある赤いフレームの、アンダーリムデザインな眼鏡は、彼女の知的な雰囲気と整った顔立ちにはよく似合っている。
左肩には、中身満載なのがひと目でわかるような大きいトートバッグを下げており、足元の大容量なキャリーケースや、小脇にも色々と荷物を抱えているのが気になったが……彼女が着ている服はマミナの着ていた中等部時代の制服とまったく一緒で、マミナにとっては予想通りの人物だった。
その姿を見止めた瞬間、自分の表情がぱっと明るくなったのが自覚できる。
クリス・マーレイ──
マミナの中等部時代からの友人……というよりも親友で、《頂》にも同時に編入してきた。
というより、もともと《頂》への進学を決めていたのはクリスの方が先で、実はマミナの方が後から決めた形である。
マミナは実際に理術を扱い、それに纏わる技能を学ぶ『操者』志望だが、クリスは『司書』……理術の知識や研究、いわゆる学問的な分野の道を志望していた。
クリスはいわゆる『操者の家系』なのだが、本人の適性……理力のアウトプットに問題を抱えているらしく──その辺の理屈は、マミナにはよく分からないのだが──操者の道は、初等部の早い段階で挫折しているとのことだった。
付き合いとしては、ほぼ中等部時代の三年間といっていい。
マミナにとっては師であるエリス以上に長い付き合いになる。
「おはよーっ! クリスっ」
マミナは感激と共に開口一番切り出した。
その手を掴んで力強くぶんぶん振り回したい衝動に駆られたが、傍目に見ても結構な荷物を抱えているので、むしろその手荷物を引き受けて、クリスの負担を少しでも軽くする。
《頂》に来ているのは知っていたが、なぜこの友人が、こんなタイミングで来たのか──喜びもつかの間、ふと気になったので素直に聞いてみる。
「でも……なんでクリスがここに?」
部屋の入口で荷物を抱えて立ち話もあれだし、何よりまだ早い時間なので、この階の他の生徒の迷惑にもなりかねない。
扉を大きく開いて、クリスに部屋に入るよう視線で促し招き入れる。
クリスもちゃんと意図を察して「お邪魔するね」と断りながら、しずしずと部屋に入ってくる。
あまり声のトーンが大きくならないように配慮しながら、クリスは質問に答えてくれた。
「ええっと……ひょっとしてマミちゃん、聞いてなかった?」
「うぇ?」
クリスとの再会のあまり、咄嗟に間の抜けた返事をしてしまうが、まぁこの友人になら構わないだろう。
基本的に人には「さん」づけが基本のマミナだが、クリスと接するときは誰よりも自然体になれるので、彼女だけは呼び捨てに出来るくらい気心が知れている。
「寮部屋。マミちゃんのルームメイト。エリスさんの計らいだと思うけど……私だよ?」
そのクリスの言葉を受け、マミナはまず歓喜のあまりに目を丸くした。
二人部屋なのに一人で使っていいものなのかと気にはなっていたのだが……これはエリスさんなりのサプライズということなのだろうか?
「ええっ、じゃあなんで初日から一緒じゃなかったの?」
「マミちゃんは編入してすぐ試技会だったでしょ? 私も似たような感じで……初日からすぐに別棟で、司書課のオリエンテーションがあったから……」
持っていたキャリーケースを、リビングテーブルの横に置きながらクリスが告げる。
自分が先ほどクリスから預かった荷物をテーブルに置きながら確認してみると、確かに様々な書籍やプリント資料が目についた。
「クリスも大変だったんだ……でも、ここに来たってことは……?」
「うん、今日からはマミちゃんと同室」
「っ……やったぁー!」
頬擦りせんばかりの勢いで思わずクリスに抱きつく。クリスは「ちょっと声っ、静かにしないと……」と嗜めてはいるが、まったく抵抗せず、マミナのされるがままになっていた。
二人で暫しのあいだ、喜びを分かち合ったあと……
「エリスさんから少し聞いてたけど……クリスだよね? 編入試験の筆記で満点だったの」
「……うん。色々とヤマも当たったし、運が良かったんだと思う」
クリスはそう言うが、謙遜なのはマミナには分かっていた。ヤマとは言うが、それは彼女の予測と推測に基づくものだし、決して運ではなく実力なのだ。中等部時代からクリスの座学の成績は飛び抜けており、マミナも度々一緒に勉強しては、色々と教えてもらっていた。
「ええっと、司書志望だと所属する教室ってどうなるの?」
「……あれ? エリスさんから聞いてないの?」
きょとんとした顔をクリスは浮かべた後、嬉しそうに微笑んで続きを口にする。
「私も『カシナート教室』預かりだよ。マミちゃんと一緒」
そのクリスの言葉を聞いた瞬間、エリスさんは何で教えてくれなかったのかという憤りも感じたが──それ以上に歓喜の方が勝っていた。
「ええっ!? っていうことは、教室でも寮でもクリスと一緒ってことだよね?」
「うん。専攻が違うから、受ける授業とか講義が全部一緒ってわけじゃないけど……」
「十分だよっ! これからまたクリスと一緒に、学校生活を送れるなんて嬉しすぎるよーっ」
「あ、それと……マミちゃんにお土産あるよ。エリスさんが、きっとマミちゃんが困ってるだろうからって、昨日預けに来てくれたの」
そう言うとクリスは、下げていた大きなトートバッグの中身を、テーブルの上に広げていく。
それは、目下の問題である食料だった。
「!? なにこれ、スゴイ」
まず出てきたのが、見るからにやわらかそうな食パンと、保冷バッグ。
「こっちはエリスさんがちゃんと保冷してくれてたよ。トッピングでもなんでも、二人が好きなように食べなさいだって」
クリスの説明を聞きながら、マミナが保冷バッグの中身を確認すると……ひんやりとした空気が顔を撫でた。中身は保冷剤と、タッパーに入れられたポテトサラダやツナサラダ。図らずもひもじい状態にあったマミナには、これだけでも贅沢品だ。
ツナサラダには少しのハーブ、ポテトサラダにはほんのりスモークの香りが漂い、空腹のマミナの食欲をさらに加速する。
食パンも、触ってみたらまだふかふかで、しっとりさを残していた。
「パンもふかふかだよぅ……こっちは豆乳と……あ! サラダチキンまである!」
牛乳の代わり、ということなのだろう。未開封なら常温保存可能な植物性の代替ミルクは、冷蔵庫のない環境では重宝されている。
サラダチキンは、そのままでも美味しく食べられるし貴重なたんぱく質だ。それを手に取りながら、クリスがぽつりと呟く。
「……ちゃんと栄養バランスを考えて、選んでくれたんだと思う」
「多分、エリスさんが茹でて味付けしてくれたんだよね。これはありがたいよ……」
まだ冷たさの残るタッパーをクリスから受け取り、マミナはさらに食材を確認していくと……これらは取り置きの食材ということだろう。用途が広く、料理の定番である卵に、少量だが手作りと思われるジャムとクラッカー、乾燥フルーツやナッツ類……
「なにコレ……あっ、粉末のポタージュスープまで入ってる!」
保存が効いて軽量、お湯さえあれば手軽に作れる。さらには種類も豊富で、コーン風味やきのこ入り。乾燥パセリやクルトンまで添えられており、まるで『これなら二人が小腹が空いた時も、簡単に準備できるから』というエリスの意図や、細やかな気配りが伝わってくるようだった。
「あとコレ。果物とかは、流石に私一人に持たせるにはかさ張るからって」
と、クリスが少し大きめな水筒を取り出す。まだ水滴がついているその水筒を受け取り、マミナが中身を確認すると──
「エリスさん特製のスムージーだよ。私は昨日先に頂いちゃったんだけど、美味しかったっ」
と、クリスはまるで姉を自慢する妹のように感想を述べた。
マミナはその色合いや匂いから、冷凍イチゴやバナナなど、果物類を使った「特製フルーツスムージー」だと察した。
これなら朝食に明るい彩りとフレッシュな味わいが添えられる。
初めは次々と出てくる食材に、ひたすら目を輝かせていたマミナだったが──次第に感動し、今は心の中で静かに……そのエリスの心遣いに感謝していた。
これからまたクリスと一緒。しかもこんな……最高の先生の下で。
さきほどまでの空腹に暮れた悲壮感はすっかりと消え去り、マミナの心は、かつてないほどの幸福と期待感に満ちていた。
その後、空腹と心を満たすには十分な食事を二人で終え──マミナの前髪が少し言う事をきいてくれなかったこと以外は──滞りなく朝支度も終わり、マミナとクリスは《頂》の校舎内を進んでいた。
廊下には、まだ動き出したばかりの空気が軽やかに流れている。
時折すれ違う生徒の視線が、一瞬自分たちに向けられるのを感じた。好奇というより、穏やかな関心を帯びたその視線に、マミナは自然と背筋を伸ばす。二人が着ている服はまだ中等部時代のものであったが……二人並んでいるとやはり目立つので、マミナはある種の特別感も覚えていた。
各教室のある教室棟と呼ばれる建物は、各階の造りもほぼ一緒なので、それほど迷うことなく『カシナート教室』という札が吊るされた教室の入り口前に辿りつく。
引き戸の木製扉は、二人で並んで通るには少々狭い横幅だった。
マミナが振り向くと、クリスは控えめに右手で「お先にどうぞ」のジェスチャーを送ってくる。
マミナは向き直り、引き戸を開け、そのまま中に入ろうとするが……ふと思い立ち、左側に立つクリスの右手を、左手の逆手でそっと握って手を引いた。
クリスが驚いた表情を見せるが、マミナは身体を横にして──ちょうどクリスに背中を見せる格好だ──肩越しの視線と繋いだ指先で、自分の意図を伝える。
それほど時間が経ったわけでもなく、言葉で示し合わせたわけでもない。
ただ顔を見合わせただけで──クリスはマミナの意図を理解したように微笑んで、マミナと背中合わせになるよう立ち位置を調整した。
繋いだ手を教室に向け前へ。背中合わせになった二人は、クリスは右足、マミナは左足を静かに上げる。
あとはお互い無言で──
二人同時に、『カシナート教室』への最初の一歩を踏み出した。
二人の足音が、静かな教室に重なり合って床に響く。
それで何か特別に、教室内の光景が変わった……というわけでもないのだが。
この一歩を──マミナは忘れないよう、胸の奥へとしまい込んだ。
足を踏み入れた教室内には、朝の静けさが満ちていた。
まず目に入ったのは、木を基調とした古風な内装。そこに、この部屋が教室であることを主張するかのように、黒板と、整然とした荷物棚が向かい合っている。
窓から差し込む僅かな光が、木製の──わずか三つの机と椅子を、静かに照らしている。
その採光は、教室内の備品を守るための配慮なのだろう。昼に近づけば、きっともう少し鮮やかになるのではないのかと、そんな印象をマミナは覚えた。
二人以外、まだ誰もいない教室の静けさが耳を優しく包む。無音に近いその空間に、別の教室からの微かな物音や、廊下から聴こえる靴音や話し声が、まるでその静寂を壊さぬように──遠慮がちな調和を奏でていた。
その静謐さに、思わず心が引き締まる。
そっと引き戸を閉めたクリスと顔を合わせると、まるで導かれるようにマミナは真ん中、クリスはその右隣の席につく。
朝の光が薄く差し込む中、二人は朝食中には終わらなかった他愛のない会話をし、今までのこと、そしてこれからのことを共有しながら、授業の開始と担任のエリス──そして残った席に座るであろう、まだ見ぬ生徒の一人を待った。
エルデは、自分が所属することになる教室へと続く廊下を進んでいた。
昨日、あのあと学生寮まで付き添ってくれたナーシャは、『ちゃんと事情があるのだから無理する必要はない』と言ってくれたのだが──もう普通に動けるし、初日から欠席というのも気が引けたのだ。この辺はエルデの性分でもあった。
僅かばかりの緊張を感じながら、入口の引き戸に手をかけると……すでに教室内に人の気配を感じる。
引き手にかけた指が僅かに強張るが、エルデは小さく嘆息すると、躊躇はせずに扉を動かす。戸溝の僅かな軋みが静けさを破るように響き、彼女の内なる緊張と不安を、さらに掻き立てた。
教室の扉を開けると、そこには……
当たり前だが試技で対峙した生徒──マミナと、もう一人知らない女生徒の姿があった。
マミナの方は、自分に対して分かりやすい驚愕の色を浮かべているが、もう一人の眼鏡をかけてる生徒の方は、こちらを向いてはいるが……その表情は驚きや警戒を含みつつも、落ち着きを感じさせる。
どうやら二人で話してるところに割り込んでしまったのは推測できた。
どうしたものかと入口で立ち止まる形になってしまった自分が考え込むより先に、向こうから声をかけてくる。マミナの方だ。
「お……おはようございます。……エルデさん」
思わず立ち上がり、この挨拶をしてきた人物を暫く観察する。
昨日、あれだけの規模の術を放ったのが未だに信じられないほど──なんの変哲もないただの少女だ。
こちらの機嫌を伺うようなその表情に、わずかに感情がささくれ立つ──が、自制する。彼女は真っ向から挑んできて、自分がそれに潰されただけの話だ。彼女との勝負そのものは、なんの小細工もない力比べだった。彼女に落ち度はない。
エルデは粟立つ感情を飲み込みながら……
「……おはよ」
とだけ告げた。
──単なる返しの挨拶。この一言を絞り出すだけで、この有様だ。
自分の敗因は、こうした心の未熟さも原因なのだと悟る。
試技会の初戦、否応なく注目される自分が、その初戦を『どう勝つか』によって、今後の見られ方が違う──……
そんなことを考えていた心のスキに、彼女の全力が突き刺さったのだ。
こうして思考している間にも……彼女の目線は泳いでいる。こちらを向いてはいるが自分を見ていない。
身体の手前で軽く組まれた手。カーディガンの裾から僅かにのぞく指先が、もじもじと動いている。
明らかに──所在なさげな彼女の様子が気の毒になってきたので、当たり障りのない言葉をかけることにした。
「……今日から授業でしょ? お互いに……頑張りましょ?」
彼女は一瞬呆けたが、言われた言葉の意味をようやく理解したのか、その猫目がちな目をぱちくりさせて、無邪気に顔を綻ばせた。
「……っ。うんっ! 頑張ろうね、エルデさん!」
弛緩した空気。眼鏡の生徒の方も、マミナの緊張がほぐれた様子に安堵したのか表情を柔らかくする。
(社交辞令なのにね……)
顔には出さず、内心そう独りごちるも……マミナのその喜んだ表情だけは、何故だか妙に印象的だった。
エルデは自然と空いている席……一番窓際で、マミナの左隣に位置する席に座り、こちらとは視線を合わせないよう、窓の外を眺めている様子だった。
マミナはそんな彼女を意識しながら、クリスとのお喋りは止めて、一人でぐるぐると黙考などしてみる。
エリスは、カシナート教室の生徒がたった三人だと言っていた。
となると必然……エルデが残りの一人、ということになる。
その共通点にも、自然とマミナは気付いていた。
今年の外来生を集めたのが──この「カシナート教室」ということになるのだ。
エリス自身も、今期から《頂》の教師になるという点を踏まえると、ある意味では外来に含まれるといえる。
それは偶然なのか、意図されたものなのかは、ただの一生徒であるマミナには判断がつかなかったが……
そんな、イマイチ形にならない思索を続けていると、黒板側にある前方の入り口から、普段より毅然とした表情で──颯爽とエリスが教室内に入ってくる。いつの間にか、始業の時刻になっていたようだ。
「おはよう。三人と私は面識あるから、堅苦しい挨拶は無しでいきましょう」
開口一番エリスが伝える。
口が挨拶の「お」の形まで出来上がっていたマミナは、口をぱくぱくさせ、多少面食らいつつも──《頂》でのエリスのスタイルを出来るだけ把握するよう心掛けることにする。そんなマミナの様子には完全に気づいている表情で、エリスはマミナに分かるよう一瞬だけ口元を緩ませ、話を続けた。
「たぶん、エルデとクリスは初対面よね?」
その言葉を受け、エルデとクリスがほぼ同時に互いを見やり、エリスに向き直って同意の意を示すように頷く。
エリスは、手にした資料をポンと叩いて教卓に置き、右手の人差し指を立てながら提案してきた。
「オーケー。じゃあまず、お互いに自己紹介といきましょう。最初は言い出しっぺの私からね」
エリスは視線を緩やかに、三人と、教室内に巡らせる。
まるで教室そのものを自身の領域として包み込むようなその気配に──マミナは無意識に背筋を伸ばした。
「私はエリス・カシナート。貴方たちをこれから預かる、カシナート教室の責任者になります。今年が新任一年目だから、お手柔らかにお願いするわね? いちおう……《頂》(ここ)で首席もとったことあるから、貴方たちにとっても不足はない先生のつもりよ」
と、少しの余裕と、自信を感じさせる態度でそう言った。
教師としての威厳とか……そういうものはあまり感じさせなかったが、《頂》でも飾らず気取らず──けれど、決して甘くなく──やっていくということなのだろう。
「じゃあ次、クリスから順番にお願いね」
と、手の平を上にしてクリスを示し、そこからマミナ、エルデの順に水平に手を巡らせて腕を組む。
クリスは柔らかい仕草で起立すると、マミナと──特にエルデに向けるように告げた。
「クリス・マーレイです。《頂》には『司書官』を志望して入門しました。制服が一緒なのでお気づきかもしれませんが……中等部ではマミちゃんと一緒でした。ご覧の通り……というのも変ですが、読書が好きです。仲良くして頂けたら嬉しいです。よろしくお願いします」
と、一言一句、丁寧なペースで告げてお辞儀した。
「丁寧にありがとねクリス。次、マミナ」
「あ、はいっ!」
マミナは、何を言おうかまとまらないまま起立すると……ほとんど言葉も交わしてないエルデの方を向いて、緊張しながら思いつくままを口にした。
「マミナ・アイギスっていいます! エルデさんはご存じかとは思うのですがっ、《頂》には『操者』を志望してきました。よくよく考えたらクリスとエリスさんには、改めて説明することが思い浮かびませんねこれ、どうしましょうっ?」
クリスが話しているときよりも、明らかに表情のトーンを落としていく、エルデの様子に次第に言葉が出て来なくなる。
エリスは苦笑いしているが、助け船を出すつもりはないらしい。「自分でなんとかしなさい」ということなのだろう。
クリスは無言だが、表情で「頑張れ、マミちゃん」と言っている。そんな二人に後押しされたという訳でもないのだが──エルデにも、自分のことをちゃんと知ってもらいたいと思ったのも事実だった。
短くひとつ、深呼吸をする。
「人には……よく『変わってる』って言われます……不本意ですけど。得意というか、好きなことは料理です。そんなに難しいのはできませんけど、焼き菓子とか、簡単なパンなら作れます。エリスさんに師事するようになってからは、栄養学とか、身体づくりにも興味が出てきてて……あ、でも甘いものは大好きです。甘いコーヒーとか、バタークッキーとかっ」
こうなると、エルデに聞いて欲しいことばかりが思い浮かんできた。舌が回ってきたこちらの様子に、エルデはその綺麗な瞳を丸くしている。
「《頂》に来た一番の目標は……『一人前の操者になること』です。誰かに助けられてるばかりじゃなくて、誰かを助けられるような人に──なりたいんです」
そんなエルデに向けて、自分のことをありのままに伝える。
「操者としては、まだその……全然なんですけど、これからエリスさんの指導のもと、エルデさんにも……色々教えてもらいたいです。よろしくお願いします」
すっかりエルデに向けた自己紹介になっているのは気づいていたので、エルデに向かって深々と頭を下げる。
それは、偽らざる自分の本心だった。
そのまま空白の時間。マミナには、エルデがどういう表情を浮かべているのかは見えない。
すると不意に──パンッ、と手を叩く乾いた音がして、マミナは顔を上げた。
「──ハイ、そこまで。続きはまた今度ね? 一生懸命にありがとう。マミナ」
手を叩いた仕草を残してそう告げたエリスは、マミナに対して僅かに目配せする。
エルデの表情が気になって、彼女の方を見てみると……多少の驚きは見え隠れするも、彼女がどう思ったのかはマミナには分からなかった。だが──おそらく自分の主観ではなく──彼女は冷たく受け取ったわけではないと、そんな予感はした。
マミナが席に座り直すのを待ってから、エリスはエルデに次を促す。
「じゃあ最後(トリ)はエルデ。お願いね」
「……はい」
表情から感情を消し、スカートに手を添え、気品を感じさせるように丁寧な仕草で席を立つと……エルデはこちらと、後ろにいるクリスに意識を伸ばすような表情で言葉を紡いだ。
「エルデ・アリンフロットです。《頂》には『操者』を志望してきました」
暫しの沈黙。ひょっとしたらこれだけで終わりなのかと、マミナは一瞬思ったが──そうではない。エルデが言うべきか迷っているのだと、何故だか自然とそう思えた。
その印象を裏付けるように、エルデは……まるで考えながらのように言葉を繋ぐ。
「私が《頂》に来たのは、アリスさんみたいな一流の操者になりたいからです。アリスさんに憧れてここに来ました。それは今でも変わりません。……すぐに感情が言葉や態度に出るので、人付き合いは苦手ですが……よろしくお願いします」
エルデが一礼すると、教室は一瞬の静寂に包まれた。
窓越しに差し込む朝の光が、彼女たちと机の影を柔らかく床に映し出し、どこか張り詰めていた空気が、静かに和らいでいるような感覚をマミナは覚えた。クリスはどこか思慮深い表情を浮かべ、エリスも一瞬だけ満足げに目を細める。
エルデは半ば目を伏せ、小さく視線を落とし、再び自分の席につく。
四人の自己紹介が教室全体に残した余韻は、まだその場の空気に薄く漂っているかのようだった。
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